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ある男

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ある男がいた。
男は周囲の人々から嫌われていた。避けられていた。冷たい言葉を浴びせられていた。本当のところはどうか分からないが、とにかく男はそう感じていた。なぜ嫌われるのか。なぜ避けられるのか。なぜ冷たい言葉を浴びせられるのか。思い当たる節は無い。本当はそうなる原因が何かあるのかも知れないのだが、男はすぐに物事を忘れてしまう。自分の過去もよく覚えていない。幼い頃の事も、最近の事も、記憶がひどく曖昧で何だかぼんやりしている。ぼんやりながらも覚えている事といえば、誰かとつないでいた手の感触とその時の風景。それが誰だったのか、いつの事だったのか、どこだったのかは思い出せない。でもなぜかその感触と風景だけは、たまに何の前触れもなく、ふと思い出す。
男は何が起こってもしばらくすると忘れてしまう。なので、起こった事が良い事なのかも、良くない事なのかも、何が起こったのかも、そもそも、事が起こったのかどうかすら覚えていない。
男はしばしば引っ越しをする。なぜか周りの人々に嫌がらせを受けるので、居心地が悪くなるからである。
男に身寄りはいない。男は一人暮らしをしている。


おれは一人暮らしをしている。
最近、何とも気味の悪いやつが隣に引っ越してきた。ばったり顔を合わせた時やすれ違った時なんかに、こちらが挨拶をしても何の返事も無い。目も合わせないし、それどころか、まるでおれの存在そのものを否定するかのような無視っぷり。
これでもかというくらいの悪人顔で、それはもうまるで悪の権化のような、悪人顔の完成形のようなクオリティ。それでいて、そいつの部屋からは物音一つ聞こえてこない。生活音というものがまるで無い。そこに関しては優良住民そのもの。しかしそれがまたかえって気味が悪い。一体どんな生活をしているのか。日々、何を考えて暮らしているのか。気にならないと言えば嘘になる。いや、しかし、世の中知らない方がいいという事もあるだろう。うむ、そうだ。まったく、怖いもの見たさという誘惑は恐ろしい。くわばらくわばら。おそらく、いや間違いなくまともな人生を歩んできてはいない。何か妙な事件にでも巻き込まれたら、たまったものではない。でも、そうは言っても、やっぱりちょっと気になる。もしかすると、話してみると案外いいやつだったりするかも知れない。人は見た目にはよらないものだ。はっ、いかんいかん、あぶないあぶない。ふぅ。君子危うきに近寄らず。くわばらくわばら。
こうなったら、おれが先に引っ越すか、それともあいつが引っ越すのが先か。ああ、早くどこか遠いところへ行ってはくれないものか。


ああ、早くどこか遠いところへ行ってしまいたい。
こんなところはすぐにでも抜け出してさ。たとえどんなところだって、ここよりはまだましに決まってるよ。何でそんなに、遠いどこかへ行きたがっているのかって?はは。これだよ。誰もおれの事を分かってくれない。誰一人、これっぽっちも理解できてないんだもんな。まったく。
そういえばいつだったか、おれに馴れ馴れしく話し掛けてきたやつがいたっけ。何て言ってたっけな。友達になろうだとか、一緒に飲みにでも行こうだとか、何かそんな事を言ってたような気がするな。でもどうせ無駄。分かってるんだ。いつもそうだからね。どうせ分かってなんかくれない。分かってるふりをしてるやつはいっぱいいるけどね。じつはそんなやつが一番何にも分かってなくて、自分の事しか見えてないんだよな。もうそんなやつらと関わるのはこりごりだよ。
でも、どこか遠いところに行けば、もしかしたらおれの事を分かってくれる人がいるかもしれない。うん、いるんじゃないかなあ。そんな気がするよ。早くそこへ行って、その人に会いたいなあ。ここらへんには全然いないんだもんな。ダメダメだよ。はは。笑っちゃうよな。まったく。


まったく。
どうしようもありませんね。このようなお人は。いったい何の意味があって、のうのうと日々を暮らしているのでしょうかね。空中にふわふわ浮いている埃や塵と、どちらの方が重みがあるのでしょうかね。道端に転がっている石ころと、どちらの方が価値があるのでしょうかね。ご自分が何を言ってらっしゃるのか、何をやってらっしゃるのか、分かっていらっしゃるのでしょうかね。まったく。ひどいものですね。呆れてものも言えませんね。
さて、これは誰か。いったい誰のことを言っているのか。教えて差し上げましょうか。それはあなたです。あなたのことを言っているのですよ。いかがでしたか。お気付きになりませんでしたか。くっくっくっ。本当に愚かですね。思い知って頂けましたか。しかしながら、一つだけ付け加えておきますと、これはあなただけではありません。じつを申しますとわたくしもです。わたくしのことも言っているのですよ。いかがですか。お気付きになられましたか。くっくっくっ。本当に愚かですね。思い知って頂けましたか。まったく。どうしようもありませんね。くっくっくっ。くだらない。


くだらねえ。
全宇宙の端から端までもれなくくだらねえ。こんな世界はくそくらえだ。いっその事、ぜんぶぶっ壊してやりてえ。あれからこっち、良い事なんてなんにもありゃあしなかった。今だってなんにも無いし、これからも無いに決まってらあ。おれがいったいなにしたってんだ。あいつらがいったいなにしたってんだ。こんなことがあっていいのかい。許されていいのかい。い~や、許せねえな。たとえ全世界が許しても、おれは許さねえ。ちくしょう。みんな、みんな敵だ。なんだってんだ。ちくしょうめ。このまま黙って泣き寝入りすると思うなよ。今に見てやがれ。みんなぶっ壊してぶっ潰してぶっ飛ばしてやらあ。くそったれめ。なんでこんな事になっちまったんだ。
ずぅ〜っと、長い長い、悪い夢でも見てるみてえだ。へっ、分かってらあ。分かっちゃあいるけど、たまにゃあふと頭をよぎる事もあるってもんだ。今見ているこれが全部夢なら、全部嘘ならどんなに良いかってな。目が覚めるとそこは柔らかい布団の上で、柔らかい朝日が窓から射し込む、爽やかで穏やかな朝。へっ、分かっちゃあいるけど、これが現実だなんて、神サン、そりゃああんまりだぜ。誰か、おれをだましていてくれ。催眠術師はどこにいやがる。出てきやがれ。出てきてくれりゃあ、笑って許してやるぜ。さあ。誰か、誰だっていい。嘘だって、言ってくれ。


うそうそ、嘘です。
すいません、嘘をつきました。全部嘘なんです。今まで言ってきた事、全部。はは。そりゃそうでしょう。嘘に決まっているじゃないですか。そんな事が、あるわけがないでしょう。まさか、冗談ですよ。気にしないでください。何でもありません。ええ、大丈夫ですよ。全然問題ありませんから。本当ですよ。大丈夫ですって。冗談の通じない人ですね。嘘だと言っているでしょう。嘘。分かりますか。あなたも一回くらいはついた事があるでしょう。そう、嘘ですよ。まあ、これも嘘なんですけどね。はは。冗談ですよ。また悪い癖が出てしまいましたね。すいません。
さあ、もういいじゃないですか。どっちでも。忘れましょう。わたしはもう忘れる事にしたんです。ですから、あなたもきれいさっぱり忘れてください。忘れるのが一番ですよ。忘れても何の解決にもならないと思っている人もいるでしょう。いやいや、それは大きな誤解ですよ。とんでもない。これ以上ない、最高の解決方法ですよ。はは。嘘です。冗談ですよ。さあさあ、それもこれも、忘れましょう。みんなみんな、忘れてしまいましょう。


ある男がいる。
この世界のどこかに、その男はいる。その男は、人々を嫌い、嫌われている。人々を避け、避けられている。人々を理解しようとせず、理解されずにいる。人々を罵り、自分を罵っている。人々を許せず、自分を許せずにいる。人々に嘘をつき、自分に嘘をついている。全てを忘れ去ろうとし、全てから忘れ去られようとしている。
今日は男にどんな事が起こるだろうか。何を感じ、何を思うだろうか。男は何をし、何を言うだろうか。どんな表情を見せるだろうか。幼い頃の事を、思い出したりするだろうか。
その男が今、ここにいたとする。あなたはその男に対して何を感じ、何を思うだろうか。何をし、何を言うだろうか。どんな表情を見せるだろうか。その男の幼い頃を、想像したりするだろうか。
あなたがいる。この世界のどこかに、あなたはいる。わたしがいる。この世界のどこかに、わたしはいる。ある男がいる。この世界のどこかに、その男はいる。

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